3/15 米山後援会長のお別れ会
故米山精次後援会長のお別れ会
9時 昭和セレモニー市川駅前に集合
11時から 開式
私は、葬儀副委員長と弔辞のお役をいただきました。
また、はじめて、モーニングを着ました。
弔辞の内容です。
弔 辞
本日ここに 故 米山精次 様 のご霊前に謹んで哀悼の辞を捧げます。
米山後援会長
会長に育てていただきました「坂下しげき」です。
米山会長の訃報に接した時は、その悲しみの大きさに震え、ただ絶句するのみでありました。
今からほんの半年前、昨年の8月30日のことです。
米山会長のご病気の回復を願い、「米山会長を励ます会」を行いました。
とても暑い日でしたが、会長はご出席くださり、いつものような暖かい笑顔をくださいました。
あれからまだ半年で、会長にお別れを申し上げることになるとは、
未だに現実を受け入れることができません。
会長に初めてお会いしたのは、17年前、私が秘書をしていた元千葉県議会議長 金子和夫先生 にご紹介いただいたときです。
当時21歳の学生であった私には、米山会長は、経歴、ひととなり、どれを取っても、とても大きな存在で、仰ぎ見るような眩しさを感じました。
しかし、そんな学生だった若輩の私に対し、米山会長は、恐縮してしまうほどに礼儀正しく接してくださいました。
その後もずっと、今日に至るまで、会長の姿勢が変わることはありませんでした。
私は、米山会長にお会いする度に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
という言葉を頭に浮べておりました。
そんな人格を備えた会長が何事も至らない私を、そばで支えてくださらなかったら、今の私は、ありません。
米山会長なくして、政治家坂下しげきの誕生は、なかったのです。
私は、2010年に自身初挑戦となる県議会議員選挙に立候補を決めましたが
市川市は千葉県で一番の激戦区であり、私には、始めから厳しい予想がされ、後援会の発足も難航必至の状況にありました。
このような厳しい局面で、米山会長に後援会長をお願いに伺ったのです。
私は、断られることを当然に覚悟しておりましたが、会長は、全ての事態を暗黙のうちに察して、ご快諾くださいました。
その時どんなに安堵したことか、どんなに心強かったか、生涯忘れません。
選挙は、春浅く冷え込みが厳しい時期に行われましたが
米山会長は、まだ日が昇らない早朝に、一番乗りで駅頭に立ち、誰よりも大きな声で「坂下しげき頑張れー!」と声を張り上げていらっしゃいました。
その時の声が今も耳元で蘇ってきます。
こうしている今も会長に励まされていると・・・感じます。
会長は、ご家庭においても、尊敬される夫であり父であったと思います。
御遺族、御親族の方々の胸中は、断腸の極みとお察し申し上げるばかりです。
米山会長、
もう少し、あと少しでもおそばにいたかった。
感謝の言葉も十分に申し上げておりません。
御恩に報いる時間もありません。
坂下しげきには、会長に教えていただきたいことが沢山残っています。
なのに、一人旅立ってしまわれました。
万感胸に迫り、涙を禁じえません。
今はただ、会長のご高恩に報いんがため、
市民の方々に誠を尽くし、真の政治改革を行うため、心血を注ぐことを
衷心よりお誓い申し上げるのみです。
どうかいつものように大きく優しいお心で、ご家族、私たちをお守りください。
本当に辛いことですが、会長に心からの尊敬と感謝を捧げ、惜別の言葉とさせていただきます。
米山会長 本当にありがとうございました。
合掌
平成24年3月15日
千葉県議会議員 坂下しげき